映画ブログでおナス。

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フィルマークス始めたので映画の話しません。

愛を目撃した話

この前の祝日の昼下がり、自宅から駅へと向かう道の真ん中で、なぜか裸足のままの子どもを抱っこして突っ立っている女性がいた。私は彼女たちのいる方向へ歩いていたので徐々にディティールが明らかになってきた。娘も母も微動だにしていなかったんだけど娘のほっぺには水滴がある。たぶん少し前まで泣いてたんだと思う。子どもをあやすお母さんなんてありふれた光景だからふつうは通り過ぎてしまうとおもうのだけど、2人がマジで無音かつ置物のように身動ぎもしないのが奇怪すぎて目に止まった。

そして不思議なことに2人との距離が近くなっていけばいくほど「うわ、これが愛じゃん…」と私は感知して泣きたい気持ちになってしまった。娘はもちろん覚えてないだろうしもしかしたらお母さんもこの時のことなど忙しない日々に紛れて忘れちゃうかもしれないけど、これが確かに愛そのものだったということを私はしかと認めた。

常日頃から私は「家族ほぼチェーンメール」説を唱えている。「なぜ人は家族をつくるのか?」この問いに対して「孤独に耐えきれないから」というとりあえずの答えを私は出している。だって、子どものことを考えたらこの世に誕生させることが本当の幸せかどうかなんてわかんない。生まれてないから自我ないし聞けないし。"I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね"ってな具合だ。

産んでもらって感謝してるかどうかはさておき、私はイタリア男の如く自分の母親のことを愛していると思う。彼女の、悲しくなるほどのどうしようもないところを知っているし、彼女の作り出した特殊な家庭環境により(というか特殊でない家庭環境などない気もするが)ピッカピカの屈託500億%人間に育ってしまった。それでも、少なくとも私の母親でいてくれてありがとうという純粋な気持ちを持っている。私のこの精神の未熟度からして、今、彼女がこの世からいなくなってしまったら私は耐えきれない。小さく小さく丸まってシクシク泣いて日々過ごすことだろう。この悲しみは誰にも埋められないはずだ。

しかし、自分に子どもがいたらどうだろう?悲しみが減ることはないが、少しマシな気分になるかもしれない。自分が本質的に必要としてきた存在の喪失感を埋められる最も効果的な方法は自分を本質的に必要としている存在を作ることだと思う。長年付き合った恋人と別れたって次の恋人の目星がついていれば涙ひとつ流さないで済むのと似ているかもしれない。恋愛の相手は練成する前に勝手に存在してくれているからいいが、子どもを産むとなると結局自分が呪われないように(呪いの程度を軽減させるために?)次の人へとバトンを渡していくチェーンメールとさして変わらないのではないか、と絶望にも似た感覚を覚える。

生きること、命を紡ぐとはなんとグロテスクで意味のないことなんだろう。それでもあの親子の姿は愛そのものだったということは確かな事実だから、ぐちゃぐちゃになりながらもその事実を受け止めてまた今日という日を生きてて自分めっちゃ大人やんと思えた日だった。